「健全な精神は健全な肉体に宿る」・・・?
みなさんも聞いたことはあるでしょう
「健全な精神は健全な肉体に宿る」
そして私はそれを聞くたびに思ったものです
「でもスポーツやってるからって性格良いわけじゃないよね」と。
まあでもね、こういう格言とかっていうのは万能じゃありませんから、
当然、健全な肉体を持ってる人でも精神が健全じゃない場合もありうるわけです。
個人的に違和感はあるけれど仕方ない仕方ない・・・なんて思ってました
しかし、
どうやらこれって元となったものと言ってることが違うらしいじゃないですか!!
↓Wikipediaより引用
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
『風刺詩集』(著者ユウェナリス)第10編第356行にあるラテン語の一節、
“ | orandum est, ut sit mens sana in corpore sano | ” |
一般には「健全なる精神は健全なる身体に宿る」(A sound mind in a sound body)
と訳され、「身体が健全ならば精神も自ずと健全になる」という意味の慣用句として
定着している。
しかし、これは本来誤用であり、ユウェナリスの主張とは全く違うものである。
そう、本来の意味で言うのなら、
「ろくな事にならないから、富やら美貌やらを神に祈るのはやめましょう。
祈るにしても、健やかな身体に健やかな魂が備わってくれることを願おうじゃないか」
ということになるわけです。
要するに、「現状では、健やかな身体に健やかな魂は備わってない」。
だからこそ、「備わるようになることを神に祈ろう」というわけです。
「行き過ぎた富はその人の人生に破滅をもたらすし、
美貌を手に入れたら不倫に走り、その結果どんな問題を起こすかわかったものではない、
長寿になったところで耄碌したらおしまいだ!
だからこそせめて、健やかな体を持てば健やかな魂も備わってくれることを・・・」
うーん・・・
これって実は単純に「心身の健康を祈ろう」っていう考え方の人もいるんですよね
Wikipediaでは否定されてましたけど。
なんか自分的にはそっちのほうがしっくり来るような・・・
しかし考えてみれば、今回の論点は「意味が違ってるかどうか」だったわけなので、
「元と意味が違ってる!」 「意味の考え方は諸説ある!」
ということでね。 お わ り
思えば福沢諭吉の学問のすゝめの一節、「天は人の上に人を作らず~…」というのも、
「人は生まれながらに平等!」ということを言いたいときに利用されますが、
実際の文を読んでみれば、
「天は貴賤上下の区別はないというが、世の中を見ればどう見ても平等じゃない。」
というように否定の文章なんですよね。
何でしょうね、この「マスコミに編集されたニュース番組」な感じは……
ま、こうやって「元の文章から都合よく抜き出した結果、別物になっちゃった」
ってのは色々あるんだなというお話でした。